伊藤詩織事件22

伊藤詩織事件の22回目です。

今回も書きますが私は山口敬之とは面識はありません。当然ですが山口敬之を擁護するために、このようなブログを書いているわけではありません。

伊藤詩織の書いた「ブラックボックス」という本の読書感想文を書いているにすぎません。

前回に続いて、この本の不可解な・・・・

失礼・・・・・

もはや伊藤詩織マジックとしか言いようがない内容について書いていきます。

前回引用した部分を再度掲載いたします。

39、40、41、42頁(文庫43、44、45、46頁)

 帰国してロイターで働く

インターンシップと学業で、さすがにバイトをする時間もなくなってしまった。また、それまでパートナーと二人で暮らしていたアパートを離れ、何人かでシェアできるアパートを新しく見つけたが、ニューヨークでの一人暮らしは、今まで以上にコストがかかった。

これまで何とか自分で賄ってきた学生生活だったが、ここで両親に送金を頼むことになってしまった。そこで私の困窮は、両親の知るところとなった。両親はびっくりし、すぐに帰国するようにという命令が下った。

仕方がない。我を通すすべはなかった。一度帰国して、もう一度何とか出口を見つける努力をしようと心に決め、私は日本に帰った。

翌年の二月から、私はロイター通信の日本支社、トムソン・ロイター・ジャパンとインターン契約を結んで働き始めた。仕事や仲間から学ぶことは多かったが、フルタイムの労働で無給であったため、サイドワークは必須であった。

(中略)

いっそフリーになった方がいいかもしれない。そう考え始めたところで、フルタイムのインターンを終え、継続して日当のもらえる契約を、シンガポールにあるロイターのアジア本社と結んだ。今後は自分の納得のゆく仕事をしながら道を切り拓いていこうと決心し、完全なフリーランスになると心に決め、久しぶりに実家へ戻った。

実家で私を待っていたのは、両親の大反対だった。インターンだけでは生活することができなかった私は、翻訳や通訳などのアルバイトも同時にしていた。日当は出るようになっていたが、やはり生活は厳しく、今後もアルバイトは続けなければならない。寝る時間も削って働く私の体を、両親は心配した。英語と日本語ができるからとの、外資系企業からの正社員契約の誘いを、何度か私が断っていることを両親は知っていた。

「せめて二年間、会社勤めをしなさい。フリーになるなら、それからでも間に合う」

いつになく強い両親の説得に、私の心は揺れた。長女でありながら、これまで自分のしたいようにさせてもらってきた。すでに社会人となった今、両親に仕送りもできず、ニューヨーク生活で最後に借りてしまったお金も返せていなかった。申し訳ない気持ちもあった。それに、両親の言うことにも一理あるかもしれない。

だからと言って、自分の向かいたい方向とは違う分野の企業に行くことは考えていなかった。それに、一般的な就職活動が始まるのはまだ先で、いずれも狭き門であった。

両親を安心させ、しかもなるべく早く自分にあった環境で仕事をするには、どうすれば良いだ

ろう。考えた私は、アメリカの大学を卒業した後、日テレのニューヨーク支局で現地採用された女の子がいたことを思い出した。

現地採用ならば、道はあるかもしれない。

日テレの現地採用枠は、その女の子が決まった時点でしばらく埋まっている。TBSのニューヨーク支局も募集はないと聞いた。

そこで思い出したのが、山口氏の「TBSのワシントン支局であれば、いつでもインターンにおいでよ」という言葉だった。もう一度インターンで仕事をさせてもらい、そこから現地採用を目指してみようと、私は考えた。

履歴書とビザ

私は、最後に連絡を取ってから半年ぶりに、山口氏にメールを送った。二〇一五年三月二十五日のことだった。

伊藤詩織の明白な嘘

41頁(文庫45頁)

英語と日本語ができるからとの、外資系企業からの正社員契約の誘いを、何度か私が断っていることを両親は知っていた。

この記述があります。

伊藤詩織は英語力を評価されて外資系の企業から正社員としての誘いを受けていると書いています。

同じく41頁(文庫45頁)

それに、一般的な就職活動が始まるのはまだ先で、いずれも狭き門であった。

正社員として契約したいと誘われているにも関わらず就職に関しては狭き門だとあからさまに矛盾する内容を書いています。

これは伊藤詩織が「ブラックボックス」で書いているのです。

英語と日本語ができるからとの、外資系企業からの正社員契約の誘いを、何度か私が断っていることを両親は知っていた。

それに、一般的な就職活動が始まるのはまだ先で、いずれも狭き門であった。

このどちらかが嘘ということになります。

これも伊藤詩織マジックなのでしょう?

帰国してから事件に遭うまでの内容は嘘です

続・伊藤詩織の明白な嘘

39、40頁(43、44頁)

 仕方がない。我を通すすべはなかった。一度帰国して、もう一度何とか出口を見つける努力をしようと心に決め、私は日本に帰った。

翌年の二月から、私はロイター通信の日本支社、トムソン・ロイター・ジャパンとインターン契約を結んで働き始めた。

この記述があります。

ここで重要なのは帰国した翌年の二月からトムソン・ロイター・ジャパンで働き始めたと書いていることです。

再度書きます。

翌年の二月から

こうはっきりと書いています。

42頁(文庫46頁)

私は、最後に連絡を取ってから半年ぶりに、山口氏にメールを送った。二〇一五年三月二十五日のことだった。

39、40、41、42頁(文庫43、44、45、46頁)

この部分の記述を読んで伊藤詩織の生活について時系列に整理したいと思います。

①ニューヨークでの生活を経済面での問題で終了して帰国しています。

②帰国した翌年の二月からトムソン・ロイター・ジャパンでインターンとして働き始めています。

③インターンとして働いている関係で生活が苦しいことが書かれています。

④トムソン・ロイター・ジャパンでは最初は無給であったが日当が出るようになったと書かれています。

⑤山口敬之にメールを送ったのが二〇一五年三月二十五日であることが書かれています。

⑥トムソン・ロイター・ジャパンで働き始めたのが2月で、生活が非常に苦しい状況であったことが書かれています。さらに途中から日当が出るようになったとの記述があります。そして山口敬之にメールを送ったのが3月25日とあるので、この3月25日はインターンを始めた年ではなく、1年またはそれ以上後になります。

すると下記の内容になります。

①二〇一三年帰国。

②二〇一四年二月からトムソン・ロイター・ジャパンでインターンとして働き始める。

③二〇一五年三月二十五日に山口敬之にメールを送った。

時系列はこの内容で書かれています。

そうなると大きな問題が発生します。

5頁(文庫7頁)

 私はジャーナリストを志した。アメリカの大学でジャーナリズムと写真を学び、二〇一五年の帰国後は、ロイターでインターンとして働き始めた。そんな矢先、人生を変えられるような出来事があったのだ。

二〇一五年帰国と書いています。

この「ブラックボックス」という本は書き出しの部分から内容が破綻しているのです。

それも時系列の説明が破綻しているのです。

「ブラックボックス」で伊藤詩織がニューヨークから帰国して問題の事件に遭うまでの経緯は

ということです。

重要なのは、このブログは伊藤詩織の「ブラックボックス」という本の読書感想文を書いているということです。

これも伊藤詩織マジックなのでしょう?

しかし「ブラックボックス」には真実しか書かれていないのです。

おそらく伊藤詩織はタイムマシーンを持っているのでしょう?

このブログを読まれた方は私の意見を鵜呑みにしないでご自身で「ブラックボックス」を読んで判断をしてください。

まだまだネタはありますよ!

当然ですが

つづく!

伊藤詩織事件23へ続く

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