伊藤詩織事件13

伊藤詩織事件の13回目です。

重要なことですので今回も書きますが私は山口敬之とは面識がありません。当然ですが山口敬之を擁護するためにこのようなブログを書いているわけではないということです。

伊藤詩織のイタリア留学の疑問

20頁(文庫34頁)

 ほどなくして私は、ニューヨークでそのまま学業を続けるのが厳しい状況になった。バイトは掛け持ちしていたが生活は苦しく、給付される奨学金は、学費は全てカバーできる金額ではなかった。そこに生活費も加わり、学校を卒業する予定の年には貯金も底をついてしまった。そこで学費、生活費が比較的安いヨーロッパの大学で、一学期分の単位をとることにした。

私の取らなければならないクラスなどを考慮した結果、イタリア、フィレンツェの大学で半年間学べることがわかった。そこでなら、学業を続けながら生活することができそうだった。同棲しているパートナーを説得するのは大変だっが、渋々納得してくれた。

アメリカの大学の卒業時期は5月です。

つまり、この記述が事実であれば伊藤詩織は大学生活の最終学期をイタリアで過ごしたことになります。当然ですが、大学の最終学期をイタリアの大学で過ごした場合、イタリアの大学を卒業することになり、アメリカの大学を卒業できません。

伊藤詩織は2013年大学の後期にイタリアへ行ったと書いています

さらにニューヨークに戻ったのは二〇一四年の夏と書いています

35頁(文庫39頁)

 そして、学費の問題を解決するため、パートナーを説得してイタリアへ向かったのが、前に書いたように二〇一三年のことだった。

イタリアからニューヨークに戻ったのは、二〇一四年夏だった。しかしその直前、パートナーとは、彼の妹の結婚式に一緒に参加した直後に別れることになった。フィレンツェでの勉強も終え、卒業式を間近に控えた私は、彼と今後の話をするようになった。これからのお互いについて、次第に意見が食い違うようになっていた。

要するに2013年の最終学期(2月開始、イタリアの大学の後期は一般的には2月~6月)にイタリアのフィレンツェに行ったとあり、ニューヨークへ戻ったのは2014年の夏と書いています。

半年の予定が何故か一年半もイタリアのフィレンツェに行っています。

「ブラックボックス」のこの記述では伊藤詩織は

二〇一三年二月〜二〇一四年夏まではイタリアのフィレンツェで過ごしたことになります。

伊藤詩織最大の嘘

言い訳のしようがない致命的な嘘です

18頁(文庫22頁)

 二〇一三年九月、私はニューヨークにいた。大学でジャーナリズムと写真を学んでいた。学費の支払いに追われ、生活は常に厳しいものであった。反対を押し切っての渡米だったので、親からの援助はほとんど受けていなかった。

伊藤詩織は「ブラックボックス」の35頁(文庫39頁)では

二〇一三年二月以降はイタリアのフィレンチェで過ごしていた事になります。

ところが18頁(文庫22頁)では

二〇一三年はアメリカのニューヨーク在住になっています。

伊藤詩織は自著「ブラックボックス」で

二〇一三年二月以降はイタリアのフィレンツェとアメリカのニューヨークの2つの都市で同時に生活した

と書いているのです。

どう考えても不可能です。しかし「ブラックボックス」には真実しか書かれていないのです。

伊藤詩織はどこでもドアを持っているのでしょう。

このブログを読まれた方は私の意見を鵜呑みにしないでご自身で「ブラックボックス」を読んで判断をしてください。

まだまだネタはありますよ!

当然ですが

つづく!

伊藤詩織事件14へ続く

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