伊藤詩織事件20

伊藤詩織事件の20回目です。

「ブラックボックス」という本は非常に興味深い本ですので読まれていない方は、ぜひ購入して読まれるようお勧めいたします。

今回もツッコミどころではなく・・・・

伊藤詩織マジック満載でお送りいたします。

山口敬之との出会いは二〇一三年九月になります

18、19、20頁(文庫22、23、24頁)

 二〇一三年九月、私はニューヨークにいた。大学でジャーナリズムと写真を学んでいた。学費の支払いに追われ、生活は常に厳しいものであった。反対を押し切っての渡米だったので、親からの援助はほとんど受けていなかった。

そこで、翻訳、ベビーシッターとピアノバーでのバイトをしていた。バーの方は帰りが深夜になるため、当時一緒に住んでいたパートナーは心配し、頻繁には出勤できなかった。しかし、ベビーシッターに比べれば、こちらの方が時給はずっと高かった。

山口氏とニューヨークで出会う

そこは、ニューヨークを訪れる様々な職種の人たちの話が聴けるし、働いている人にもそれぞれ夢があり、楽しい職場だった。

私が山口敬之氏に初めて会ったのは、その店だった。

お客さんとの会話で、私はいつも「ジャーナリズムの勉強をしている」とオープンに話していた。その日、私がいつものようにそう話すと、飲んでいた一人が山口氏を指し、「この人はTBSのワシントン支局長だよ」

と言った、山口氏は気さくに、

「自分もジャーナリストだから、君みたいに夢を持っている人に会うのは嬉しいね」

と言った。私自身、長い間の夢であったジャーナリストと出会え、その場の話は盛り上がった。その時私はすでに、翌年の卒業直前にインターンシップを体験し、ニューヨークの現場で働きたいと考えていた。先輩から話を聞けることが、とても嬉しかった。

インターンシップとは大学在籍中の学生などが、企業で体験的に働く制度のことだ。

山口氏が名刺をくれ、「機会があったらニューヨーク支局を案内するから、ぜひメールを下さい」と言ってくれた。

その日はそこで話は終わった。

再会の時は意外と早くやってきた。まだ秋が終わらないうちに、ニューヨークを訪れた山口氏から連絡があったのだ。

「TBSのニューヨーク支局長とお昼を食べているんだけど、来ない?」

という誘いだった。学校の授業も丁度終わったところだった。喜んで、と二人のいる日本料理屋に行くと、二人はもう食べ終わるところだった。

私はすぐに出てくるデザートだけオーダーし、自己紹介を済ませた。その後、山口氏自身は用があるということで、TBSのニューヨーク支局まで一緒に行き、支局の人たちに挨拶すると立ち去った。それから私は支局長に内部を案内してもらった。

38、39頁(文庫42、43頁)

 ニューヨークで大学卒業を目前にして、私は本格的にインターンシップの受け入れ先を探し始めた。現地にある働いてみたいと思うメディア関係者にメールを送った。その中に山口氏も入っていた。一年ぶりに連絡をしたが、山口氏は、

「TBSはいま、人が足りている。日本テレビはいつも人を募集してるみたいだから、自分の知り合いのニューヨーク支局長に連絡してみたら?」

と、紹介してくれた。ウェブで募集の詳細を確かめ、面接とテストを受けて通過した後に、同じ年の九月から、日本テレビ(以下、日テレ)でインターンとして働き始めた。

九月には国連総会があり、各局の記者がニューヨークに集まる。日系のメディアは共同で、あるホテルの大会議場を貸し切り、同じ現場からニュースを発信していく。私はその中の一人で、山口氏もニューヨークを訪れていた。同じ現場にいると知ると、山口氏は国連大使や著名人との会合に誘ってくれたりした。その時私は、ちょうどニューヨークを訪れた知人に案内を頼まれていたので参加しなかったが、彼の話には私のインターン先である日テレの社員の名前も挙がっていて、きっと華やかな会合なのだろうと想像していた。

結局この時は会議室でも顔を合わせることはなく、ニューヨーク時代に山口氏に会ったのは、1回目のバーでと、そのすぐ後にTBSのニューヨーク支局長を紹介してもらった際の二回。二人きりで会ったことは、一度もなかった。

私にとって山口氏は、多くの知り合いの中の一人で、気さくに人を紹介してくれる成功したジャーナリストであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。

少々引用が長くなってしまいました。

18頁(文庫22頁)の記述では山口敬之との出会いは二〇一三年九月としか解釈できません。

伊藤詩織の明白な嘘

まず問題を感じたのが下記の記述です。

38頁(文庫42頁)

同じ現場にいると知ると、山口氏は国連大使や著名人との会合に誘ってくれたりした。

この部分を読めば理解できますがニューヨークのホテルで伊藤詩織は山口敬之と会ったと書いています。

ところが

39頁(文庫43頁)

 結局この時は会議室でも顔を合わせることはなく、

同じページで会ったことを否定しています。

一体何を書きたいのでしょう?

これぞ伊藤詩織マジック!

何故新聞社の支局を訪問しないのでしょうか?

19頁(23頁)

「自分もジャーナリストだから、君みたいに夢を持っている人に会うのは嬉しいね」

と言った。私自身、長い間の夢であったジャーナリストと出会え、その場の話は盛り上がった。

伊藤詩織は新聞社を訪問するという発想はないのでしょうか?

日本全国どのような地域に住んでいても新聞社の支局があります。そこを訪問すればジャーナリストには会えます。

伊藤詩織は日本語の能力に問題がありすぎます

明らかに期間を間違えています

19頁(文庫23)

 山口氏が名刺をくれ、「機会があったらニューヨーク支局を案内するから、ぜひメールを下さい」と言ってくれた。

その日はそこで話は終わった。

再会の時は意外と早くやってきた。まだ秋が終わらないうちに、ニューヨークを訪れた山口氏から連絡があったのだ。

38頁(文庫42頁)

ニューヨークで大学卒業を目前にして、私は本格的にインターンシップの受け入れ先を探し始めた。現地にある働いてみたいと思うメディア関係者にメールを送った。その中に山口氏も入っていた。一年ぶりに連絡をしたが、

この記述があります。

伊藤詩織が山口敬之と初めて会ったのが二〇一三年九月です。これは「ブラックボックス」を読んで判断しました。この判断しかできないように書かれているからです。

二回目にあったのが

19頁(文庫23)

まだ秋が終わらないうち

とあります、ニューヨークは寒い地域なので、これは一〇月であると考えます。

ところが

38頁(文庫42頁)

 ニューヨークで大学卒業を目前にして、私は本格的にインターンシップの受け入れ先を探し始めた。

この記述があります。

アメリカの学期については「伊藤詩織事件9」でも書いていますが再度書こうと思います。

前期9月から12月

後期1月から5月

再度38頁(文庫42頁)

 ニューヨークで大学卒業を目前にして、私は本格的にインターンシップの受け入れ先を探し始めた。

これが事実であれば5月以前のことになります。

ところが伊藤詩織は

38頁(文庫42頁)

 ニューヨークで大学卒業を目前にして、私は本格的にインターンシップの受け入れ先を探し始めた。現地にある働いてみたいと思うメディア関係者にメールを送った。その中に山口氏も入っていた。一年ぶりに連絡をしたが、

このように書いています。

伊藤詩織がニューヨークで山口敬之に二回目に会ったのは前年の秋です。

そうであれば38頁(文庫42頁)は

 ニューヨークで大学卒業を目前にして、私は本格的にインターンシップの受け入れ先を探し始めた。現地にある働いてみたいと思うメディア関係者にメールを送った。その中に山口氏も入っていた。半年ぶりに連絡をしたが、

この記述にならなければなりません。

「ブラックボックス」を読んでいて感じることは伊藤詩織はジャーナリスト志望であるにも関わらず日本語の文章能力が非常に低いということです。

外国語を覚えるのもいいですが母国語である日本語の文章能力を高める必要があると考えます。

伊藤詩織は何故大学を卒業していないのでしょうか?

38頁(文庫42頁)

 ニューヨークで大学卒業を目前にして、私は本格的にインターンシップの受け入れ先を探し始めた。現地にある働いてみたいと思うメディア関係者にメールを送った。その中に山口氏も入っていた。一年ぶりに連絡をしたが、山口氏は、

「TBSはいま、人が足りている。日本テレビはいつも人を募集してるみたいだから、自分の知り合いのニューヨーク支局長に連絡してみたら?」

と、紹介してくれた。ウェブで募集の詳細を確かめ、面接とテストを受けて通過した後に、同じ年の九月から、日本テレビ(以下、日テレ)でインターンとして働き始めた。

この記述がありますが特に重要なのは

 ニューヨークで大学卒業を目前にして、私は本格的にインターンシップの受け入れ先を探し始めた。

同じ年の九月から、日本テレビ(以下、日テレ)でインターンとして働き始めた。

これです。

アメリカの大学の学期については以前のブログで説明しています。

今回のブログでも説明しています。

そうであれば、この時点で伊藤詩織は大学を卒業していることになっています。

ところが39頁(文庫43頁)

 帰国してロイターで働く

インターンシップと学業で、さすがにバイトをする時間もなくなってしまった。また、それまでパートナーと二人で暮らしていたアパートを離れ、何人かでシェアできるアパートを新しく見つけたが、ニューヨークでの一人暮らしは、今まで以上にコストがかかった。

これまで何とか自分で賄ってきた学生生活だったが、ここで両親に送金を頼むことになってしまった。そこで私の困窮は、両親の知るところとなった。両親はびっくりし、すぐに帰国するようにという命令が下った。

伊藤詩織は38頁(文庫42頁)で

ニューヨークで大学卒業を目前にして、私は本格的にインターンシップの受け入れ先を探し始めた。

このように書いています。

そうであれば何故、その後も大学を卒業することもなくインターンと学業を同時に行っていたのでしょうか?

伊藤詩織は38頁(文庫42頁)で

 ニューヨークで大学卒業を目前にして、私は本格的にインターンシップの受け入れ先を探し始めた。

このようにはっきりと書いています。

そうであれば同年の5月には大学を卒業していなければなりません。

ついでですがイタリアのフィレンツェの大学はどうなっているのでしょうか?

はっきり言って支離滅裂な内容の羅列でしかありません。

これも伊藤詩織マジックなのでしょう!

このブログを読まれた方は私の意見を鵜呑みにしないでご自身で「ブラックボックス」を読んで判断をしてください。

まだまだネタはありますよ!

当然ですが

つづく!

伊藤詩織事件21へ続く

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