伊藤詩織事件43

伊藤詩織事件43回目です。

このブログを読まれている方でまだ「ブラックボックス」を購入されていない方は購入しましょう。

そして伊藤詩織マジックを堪能しましょう。

図書館で借りるといったことはやめましょう。

この本は一家に一冊の必需品と言ってもよいでしょう。

今回も支離滅裂・・・・

失礼・・・

伊藤詩織マジック満載でお送りいたします。

カンザスの高校留学からニューヨークに大学へ行くまで(再々々々掲載)

31、32、33、34頁(文庫35、36、37、38、39頁)

 カンザスの何もない広い土地は、確かに時に恐ろしかった。この土地のどこかに隠されたら一生誰も見つけてくれない。一生出てこられない。そんな恐ろしさだった。

幸いことに、カンザスの土地に私の血を残すような事件は起こらず、一年が過ぎた。帰る時には、皆と大声で抱き合った。居候という身で、見じ知らずの家庭にまざってそのルールの中で生活することや、車がなければどこにも行けない閉鎖的な土地柄は不自由も多かったが、留学生活は、まったく違う次元の自由を私に与えてれた。

(中略)

日本に戻った私は、母を驚かせた。

「私の娘はどこに行ったの?」

それは、私が出かける前とはまったく違う風貌になっていたからだ。

アメリカで出されていたものをすべて胃袋に収めてきたので、日本を離れた時から十一キロ近く体重が増え、しかも帰りにフロリダの友達を訪ねたため、真っ黒に焼けていた。

久しぶりにモデル事務所に挨拶に行くと、驚いたスタッフにダイエットをするように命じられたが、高校生になり、バイトもできるようになっていた私には、以前の芸能の仕事はもう必要なかった。

この仕事をしたおかげで、海外の高校へ留学できたことに、感謝するだけだった。

 

ニューヨークで学ぶと決意する

私は、ニューヨークでジャーナリズムを学ぶことを目指した。情報の行き交う、あの街で学びたかった。

だが、アメリカの大学への留学費用は、想像を超えるほど高かった。いくつかの奨学金や学生ローンで学費を得ようと思い、申請書を取り寄せたりしたが、両親の所得が条件に合わなかった。所得が一定以上あったとしても、それぞれ事情や判断があり、必ずしも親の協力を得られるわけではないのに不公平だと思った。しかし、金銭的な理由であきらめたくなかった。

私は、昼夜問わずバイトを掛け持ちした。寝る時間も友達と会う時間もなかったが、何よりも少しずつ貯金ができ、大学に行く夢が近くなっていくのが嬉しくてしょうがなかった。

しかし、お金を貯めるだけの生活は楽しくないので、某テレビ局で報道のアシスタントのバイトも始めた。四年生大学以上と募集要項にあったが、気にせず募集してみたら面接に受かり、憧れの報道局の慌ただしい雰囲気の中で、雑用に追われ走り回った。

休む時間はなかった。でも、楽しさと希望で、疲れるということがなかった。

そんな生活を一年近くしたところで、友達と東南アジアの友達を訪ねる旅を計画した。できるだけ多くの国を回り、世界を見てみたかったのだ。

しかし、忙しくて荷物をパッキングする時間がなかった。出発の前日、仕事から帰宅して、やっと荷造りをしようと洋服をたたみながら、私はつい眠り込んでしまった。

起きた時には、すでに空港での友人との待ち合わせ時間だった。何も荷物を持たず空港に向かったが、飛行機のチェックインには間に合わなかった。友人は、先に行っているからと飛行機に乗り込んだが、離陸直前に、やっぱり不安でたまらないと連絡が来た。

どうしようか、迷った。当日発売のチケットは、寝ないで働き貯めたお金が簡単に飛んでしまう額だったのだ。空港でいろいろ調べるうち、一ヶ月後のリターンチケットで出発する格安の往復チケットを何とか見つけることができ、追いかけるようにして友人の元に発った。

その時、私は初めて自分の置かれた状況を悟った。私は疲労のピークにいて、どう考えても大学進学計画は、金銭面で現実的ではないと思い知らされた。これではニューヨークの大学に行く前に、過労死してしまうと思った。

帰国した私は、まずほぼ学費のかからないいドイツの大学に行くことに決めた。その後、実際にドイツに向けて出発はしたが、だからと言って、アメリカでジャーナリズムを勉強することを諦めたわけではなかった。

今までみたいに、どうにか方法が見つけられるはずだと思っていた。アメリカの大学の学費は、取得する単位数で決まる。そこで、できるだけ学費のかからない別の国の学校で単位を集めて、希望するニューヨークの大学にあらかじめ単位を移行してから入学する、というのが、この時の私の作戦であった。

また、アラビア語の勉強もして、取材ができる範囲を広めたいと思った。当時、ドイツの大学では、英語で学べる授業の範囲には限りがあった、そんな時、スペインの大学で国際関係学を学びながらシリアに留学できる制度があると聞き、スペインの大学にも行ってみた。ちょうどその年にシリアの情勢が悪化し、結局シリアの学校行きは果たせなかったが、単位は順調にたまっていたし、スペイン語も身についた。

当時遠距離で付き合っていたパートナーの彼と、一緒に住んでお互いに仕事や勉強を続けられる生活を考え始めた。私は彼に、ニューヨークに行こうと切り出した。そこで彼は、ニューヨークでの仕事のポジションに受かり、私も奨学金がもらえる海外の制度に受かった。念願のニューヨークでの勉強が、遠回りをしてやっと叶ったのだった。

この部分の記述は非常に重要なので繰り返し掲載しています。

この部分には伊藤伊織がアメリカ、カンザス州の高校に1年間留学して以降、ニューヨークの大学に行くまでの経緯が書かれています。

そのため「伊藤詩織事件39」から毎回掲載しているのです。

勘の良い方は気づいていると思いますが、この部分の記述が事実であれば伊藤詩織は

高校を卒業してません!

このブログを読まれた方は私の意見を鵜呑みにしないでご自身で「ブラックボックス」を読んで判断をしてください。

まだまだネタはありますよ!

当然ですが

つづく!

伊藤詩織事件44へ続く

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