以前「人間でありながら人間でない。その苦しみは私だけ2人だけで十分なんだ。」このブログにも書いていますが私はこの「仮面ライダーV3」の第1話の記憶が強く残っています。
この記憶のせいもあるのですが私は現在放送されている「仮面ライダー」のタイトルを冠した番組に強い拒否感があります。
「人間でありながら人間でない」この仮面ライダーの定義が見事なまでに無くなっているからです。
最初の仮面ライダーは改造人間でした。
仮面ライダーで改造人間という設定が使われたのは原作に石ノ森章太郎を起用したことによります。これは同氏の「サイボーグ009」が影響していると言われています。
以前のブログにも書きましたが医療技術の進化により改造人間というテーマは古くて使えなくなります。
ただ「人間でありながら人間でない」このテーマは守られていました。
しかしこれを平成シリーズで守っているのは「仮面ライダークウガ」と「仮面ライダーアギト」だけです。
「仮面ライダー555」でも主人公の乾巧(半田健人)がオルフェノクという怪人が正体であるという設定にはなっていますが、ファイズギアがなければ変身できない。さらにオルフェノクではない普通の人間も仮面ライダーファイズ、仮面ライダーカイザ、仮面ライダーデルタに変身するので(この作品は仮面ライダーに変身する人物が決まっていないのが特徴)「人間でありながら人間でない」このテーマが明確に守られているわけではありません。
2000年に平成シリーズが始まるのですが「仮面ライダークウガ」は古代戦士クウガの能力を身に付けた五代雄介が主役です。この作品で主役のオダギリジョー演じる五代雄介は戦っている未確認生命体と同じ戦うための生物兵器となる可能性を指摘されながらも「みんなの笑顔のために」戦うというストーリーです。
つまり「人間でありながら人間でない。」この仮面ライダーのテーマを守っているのです。
続く平成シリーズ第2作「仮面ライダーアギト」は人間の未知なる力「アギト」の能力に目覚めた津上翔一(賀集利樹)が主役です。これも当然ですが「人間でありながら人間でない」この仮面ライダーのテーマを守っているのです。
「仮面ライダーアギト」には仮面ライダーが3人登場するというシリーズ初の試みがされています。
津上翔一と同じアギトの能力を身に付けてしまった葦原涼 (友井雄亮)が変身するギルス。
これは本人の意思とは無関係に仮面ライダーになってしまったという設定です。
当然ですが、これも「人間でありながら人間でない。」この仮面ライダーのテーマを守っています。
警視庁が開発した強化スーツを装着するG3、G3-X。装着するのは氷川誠 ( 要潤)。
初めて普通の人間が仮面ライダーを名乗った記念すべき出来事です。
このG3に関しては放送当時インターネット上で仮面ライダーとして認めるか、認めないか。
これが議論されました。
当然ですがスタッフの間でもこれは議論されたそうです。
私はG3に関しては21世紀にもなったのだし「仮面ライダーとして認めても良いのではないか。」この意見でした。
ちなみにG3が第1話でGトレーラーからガードチェイサーに乗って出動するシーンでは後ろ向きにGトレーラーから出ています。ただ、このシーンをめぐってスタッフの間では「仮面ライダーが後ろ向きに出動するとは何事だ」この意見が出たそうです。
このG3が初出動するシーンを巡っては「後ろ向きに出動するのか?」「前向きに出動するのか?」これで意見が分かれてかなり白熱した議論になったと聞いています。
「仮面ライダー」のスタッフであれば、このような熱い議論をするのは当たり前というのが私の意見です。
近年の「仮面ライダー」のスタッフには是非見習って欲しいものです。
ただ、このG3、G3-Xは主役の仮面ライダーではありません。さらに「仮面ライダーアギト」は「仮面ライダー30周年記念作品」です。要するにこのようなイベント的作品だったからファンからも普通の人間であるにも関わらず仮面ライダーとして認めた面もあるのが事実です。
ついでですが「仮面ライダーアギト」には特番でG3マイルドという仮面ライダーも登場しています。警視庁G3ユニットのメンバー尾室隆弘 (柴田明良)がG3マイルドを装着しています。
「仮面ライダーアギト」で初めて普通の人間が仮面ライダーを名乗ったのは事実ですが、上記しているように、この作品は「仮面ライダー30周年記念作品」として製作された作品です。
このため例外的にファンもG3、G3-Xを仮面ライダーとして認めたのが現実です。
つまり「仮面ライダーアギト」が放送を開始した2001年当時は仮面ライダーは「人間でありながらの人間ではない」このテーマを守っていたのです。
仮面ライダーは東映の作品であり。東映の所有財産と言ってもいいでしょう。
だからといって何をしてもいいわけではありません。
1971年から始まり。現在も放送されています。
時代によって様々な仮面ライダーが登場するのも当然です。
ただ変えてはいけない部分があるのも、また事実です。
そもそも論ですが現在の仮面ライダーには定義というものが存在しません。
東映は仮面ライダーという作品は制作しているが仮面ライダーの定義というものは完全に捨て去っています。
このことを東映は自覚していません。「自社の作品なのだから何をやってもいいだろう」このような姿勢で作品を大切にすることもなく目先の利益のために拙僧もなく毎年「仮面ライダー」の名を冠した番組を制作している。これが現実ではないでしょうか?
「仮面ライダー」は1971年に放送が開始され常時視聴率が20%を超える人気番組になりました。
これは当時の制作スタッフの尽力によるものが大きのが事実ですが、もう一つ重要なことがあります。当時の子供達が「仮面ライダー」を夢中になって見ていたことです。当時の子供達が「仮面ライダー」を見ていたから人気作品になった事実を忘れてはいけません。
当然ですがその中の1人は私です。
現在の仮面ライダーは普通の人間です。かつて存在した仮面ライダーの定義というものが無くなった現在も「仮面ライダー」のタイトルを関した番組を製作するのは、かつての視聴者だった方達を裏切る行為です。
惰性で毎年「仮面ライダー」の名を冠した番組を作り続けるのであれば一度制作を中止して新規の番組を作るべきです。東映には特撮作品に関しては高い制作能力があります。当然ですがこれは可能なことです。
そして「仮面ライダー」に関しては一度立ち止まって「仮面ライダー」はどうあるべきなのか?
これを真剣に考える必要があると考えます。
この手の定義についての議論は、ガンダムにもウルトラマンにもゴジラにも、あらゆる特撮シリーズで話題になりますが、最も議論が荒れやすいのは仮面ライダーでしょう。
アイデンティティであるはずの「ライダー」も「昆虫ベースの改造人間」も「悪の組織」も何一つ継承していない作品が近年は本当に増えました。
特にバイクに跨らないにも関わらず「ライダー」と名乗る事には大きな問題があるように思えてなりません。
生体操作を一切受けずに神秘による超常現象によって変身し、しかも目的すら明確ではないヒーローは、それはそれで面白いのでしょうが、仮面ライダーでも何でもありません。
この感情は、海外でカリフォルニアロールなどの創作寿司を見せられているような、気分に近いです。
寿司にマヨネーズをつけて食べるのは、それはそれで旨いにしても江戸前寿司を名乗るべきではないと私は思います。
私が個人的に平成ライダーおよび令和ライダーを認めていないのはこういった事情によります。